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海外移住から帰国した異邦人オバサン

海外移住から帰国して「進化した日本」に戸惑うシニアの奮闘記

時代から取り残されたおばさんが感じるニッポンの今

<違和感の正体は?>

海外に居住していると、日本の文化や慣習の素晴らしさにあらためて気づかされる。日本人らしい情緒や心の機微にふれた時などは「ああ、日本人で良かったな~」と心底思ったものです。

20年ぶりとなる日本での生活に望郷の念を募らせていたものの、現実は自分が記憶していた日本とは違ってみえた。まるでタイムマシンに乗ってやってきたかのようで、全くついていけないのだ。20年前から時が止まっていたオバちゃんは、あちこちで”逆カルチャーショック😲”を受けることになる。

事物の進歩は習いながら慣れていくとしても、人の価値観の変化には大きな違和感を感じている。ジェネレーションギャップとでもいうか?「そりゃそうだ、現役で活躍している人とおばちゃんとでは、年代も感性も違うんだから交わらないのは当然でしょう」(確かに、ごもっともです)

異文化で揉まれながら虚勢を張って暮らしてきたので、テンションの違いは多少あるのかもしれない。でもなんだか知らないうちに、日本人が「未知の人」みたいになってしまった気がするのです。(これって帰国者にありがちな感情らしい)昭和レトロなノスタルジーに浸りたいがため、過去の記憶を捏造したのだろうか。(これは老人にありがちな状態😆)

自らの意思で海を渡り、家族でそれなりに幸せに過ごしていたけれど、海外では外国人であることには変わりない。いろいろな事情が重なって再び日本で過ごすことに、不安とともに喜びも感じていた。どこに住もうと自分の中身は100%日本人だとあたり前に思っていた。ところが、自国に戻って自分のアイデンティティが取り戻せないとは何とも情けないものである。まさしく、オバさんは「異邦人」なのです。

違和感を克服するカギは、自分自身の内側にあったのです。20年間のブランクを埋めて、現代社会に適応していくにはそれなりの時間が必要でしょう。(不安😰)愚痴を言いつつも、我が愛する日本の変化をうかがってみることにします。

<日本はやっぱり”優等生”の国>

海外に住んだ経験がある方は感じることでしょうが、日本という国は”真面目で色んなことがちゃんとしている国”だと痛感します。

配達や修理業者は約束の時間に来てくれるし、電車やバスも定刻通り。これは、世界が認める日本の誇るべき”キセキ的マジック”です。

ついこの間までは、業者の依頼をしても1時間や2時間ずれるなんて当たり前、ヘタをしたら”待てど暮らせど来ないし連絡もない”という状況だったのですから、その感激もひとしお。「まだか、まだ来ぬか」とイライラしながら過ごして一日を棒に振る。・・で、どうするか?まず怒るのは絶対にNG!(来てくれないと自分が困るからここはグッとガマン!逆ギレも怖いし・・)、前もって色んなパターンを想定しておく、ひたすらプッシュする、何とか来てもらうように”おびき寄せる”などと試行錯誤。

やっと来てくれても、仕事っぷりはしっかりチェックしないといけない。ミスがあろうと謝らないし非を認めない。(でもこちらがミスをしたとしても”お互いさま”と許容してくれるから、おおらかというか?そのユルさが良かったり悪かったりです)

”お客様は神様”ではなく、あくまでも”人対人”対等なんだということなんでしょう。とにかく安心して「おまかせしま~す」という訳にはいかないのです。その点、日本は丁重に職務を遂行してもらえる。余計な心配をする必要がなくて、とても楽なのです。

毎日のことで感動するのは、断然”食べものが美味しい”こと。味覚に合っているというのもさることながら、食材そのものが良いのだ。素材を、繊細に誠実に作って管理し消費者に届けているからに他ならない。実直な”職業意識”の賜物である。勿論それは素晴らしいのですが、何といっても一番良い点は”安全”だということでしょう。

異国で我が身を守るためには”安全確認”は必須。「備えあれば憂いなし」で過剰なほどでもよいくらいだ。鍵はちゃんとしたか、カバンの持ち方を確認し、ヘンな人がいないかと回りを伺う。買い物も気が抜けない。品物に不具合はないか、計算間違いはないか、おつりは大丈夫か。特にお金のあつかい時は注意をする。ATMや両替所では現金を素早くしまって、足早に立ち去る。・・などなど挙げたらキリがないほどだ。何が起こるかわからないし、泣いたってわめいたってダメ。理不尽な事なんていくらでもあるから、念には念を入れて・・「自己責任で身を守る」しかないのです。

そんな危機管理の日常は、とにかく気が休まらない。日本にいると安堵感で肩の力が抜けてくる。安心安全でつくづく”優等生な国”だと感じます。

<やりすぎな社交辞令>

日本のコンビニやスーパーでは「いらっしゃいませ~♪」「ありがとうございました~♪」と、歓迎される。こんなにお客様あつかいをされると当然”いい気分”になる。

だが、異国暮らしで疑うことが日常化してしまった”ひねたオバちゃん”は思う。

アニメのキャラクターみたいな声で「いらっしゃいませ~♪」と、いつも変わらずロボットのように繰り返されるが。しかし、そのマスク下の口元は笑っていないナ・・。だから”熱烈歓迎”されても、疑いの気持ちが湧いてくる訳だな。(やはり完全にヒネている、いや悪魔か?)

「ただのマニュアルだから、誰もそんなことは気にしちゃいない」・・のでしょうか。模範対応が求められるから単に演じてるだけで、何の疑問も持たないとしたらすこし寂しい気がする。「礼儀とは、形だけでなく気持ちを込めることで相手に伝わるもの」です。”おもてなし精神”は日本的で美しい文化ではあるが、形式だけの「いらっしゃいませ~♪」は、無機質で味気ない。誰もがもっと自然体でいられれば良いと思っている。

うわべだけの社交辞令よりも、”心の底からの笑顔”の方がよほど人の心を動かす。日本は進化の過程で、大事なものをどこかに忘れてきてしまったのだろうか。

<不機嫌な心のなか>

ごみ出しの時は、ご近所さんが見知らぬ新参者にも「おはようございますー」「こんにちは!」と声をかけてくれる。しかし、道ですれ違うだけの人や車の運転をしている人の中には”不機嫌な人”が結構いる。利害関係のない人間に対しては、無関心で意外に冷たいのだ。

「本音とたて前」「裏と表」の差がすごく大きくなっていると感じている。実はこれが、帰国後いちばん戸惑っていることである。”とても親切で感じが良かったのに内心は全然違っていた”という場面に遭遇し、心痛める事がしばしばあったのだ。ホンネや本心は無意識で無防備な時に透けて見えるから、いくらオバちゃんでも多少のお世辞や虚言くらいはわかる。ところが外側からはまるで想像できないほど、複雑かつ巧妙なのだ。何のために実際と異なる”よい言動”をするのかが、まったく理解ができない。

外面と内面が極端に違ったら、自分を見失ってしまうだろう。何よりも本人の心が辛くなる。まわりの目を気にして同調し過ぎれば、心もカサカサとしてくることでしょう。だからといって人と異なれば仲間外れになったりと。ああ、なんて難しい世の中なのか、本当にわけが解らない。きっと日本人はストレスが溜まってることだろう。もっとのびのびと楽しく生きられる社会であったらいいのに・・と心からそう思う。真面目で優しく、そして優秀で才能あふれた日本人は多い。それぞれの個性が埋もれることなく、ありのままの自分でいられるような社会であれば、自分を装う必要もないだろう。

この20年余りで世界中が大きく変容した。それに伴って人も変っていくのは当然のことだ。社会の流れは、今また転換期を迎えているようなので、今後は柔軟でかつ自由な国・国民になっていけることを願っている。